意識の病 ~歪んだ意識状態~
この記事は2018.9.2、22:22に更新しました。
更新内容:第5文目を追加しました。
とある褌師曰く、
思考や想念が気になるということは、お前たちが本来の在り方から外(はず)れた歪(ゆが)んだ意識状態にあるということじゃ。
つまり意識が病んでいるということじゃ。
健康な子供は、身体のことなぞ意識せん。
だが病気になった者やケガをした者は、身体のことやその部分が気になってしょうがないのと同じことじゃよ。
健全な意識を有しておるものは、思考や想念のことなぞ気にせんわい。
しかし近頃の人間というものは、身体の病に対しては病的なまでに神経質なものだが、意識の病の方に関してはまったくもって無頓着(むとんじゃく)のようじゃ。
わかっておるな?
仏のご縁があって褌の門をくぐったお前たちは、それではいかんぞよ・・・
大森酒道(おおもり・しゅどう)
やはり、褌の師であられるお方が、お弟子さん方に提唱(ていしょう)をなされる時のお言葉は手厳しい。
智慧(ちえ)の実をかじったアダムとイヴの子孫として象徴される私たち人間というものは、意識の病であることが常態化したために、この世界全体が意識の病の患者の収容病棟のようなものとなっておりますので、ここではむしろそのような意識の病態の方が正常とされているわけであります。
ですから、この地球という何とも幼い惑星体において、そのような意識の病を克服した人というものは、聖者や覚者や仏陀(ぶっだ)などとして崇(あが)められたり、変わり者、愚か者、怠け者の役立たずなどとして蔑(さげす)まれたりする運命となってしまうのも不思議なことではありません。
ある観点からしますれば、そんな意識の病を克服した彼らにとっては、世間にいながらにして、いまだに病人のフリをし続けて、それなりにやり過ごしていくか、人里離れた山に籠(こも)るなどでもしなければ、なんとも生きづらい世の中でもあるわけであります。
ですから、そんな彼らにとってもいずれは訪れることとなる肉体的な死とは、何ら恐れるものではなく、ようやくこの肉体というなんとも不自由な重い鎧(よろい)を脱ぎ捨てられることや、ついにやっと患者で溢れた収容病棟から抜け出せること、そのような意味においてはむしろ楽しみであったりもするものです。
そのような世界にあって、気がつけば私はスピリチュアル教師という名のもとに、意識の病を癒(いや)すヒーラーのような役割となっていたのでございます。
骨の折れる大変なお役目ではございますが、私(わたくし)めにとってはこれが最後の生となりますので、それなりに全うしていこうという所存でございます。
それでは最後に、大森酒道(おおもり・しゅどう)褌師の先の提唱のお言葉に、その一番弟子であられたお方がその続きの一句を加えられたものをご紹介して、お別れといたしたいと思います。
思考や想念が気になるということは、お前たちが本来の在り方から外(はず)れた歪(ゆが)んだ意識状態にあるということじゃ。
つまり意識が病んでいるということじゃ。
健康な子供は、身体のことなぞ意識せん。
だが病気になった者やケガをした者は、身体のことやその部分が気になってしょうがないのと同じことじゃよ。
健全な意識を有しておるものは、思考や想念のことなぞ気にせんわい。
しかし近頃の人間というものは、身体の病に対しては病的なまでに神経質なものだが、意識の病の方に関してはまったくもって無頓着(むとんじゃく)のようじゃ。
わかっておるな?
仏のご縁があって褌の門をくぐったお前たちは、それではいかんぞよ・・・
どんなに枝のことを気遣(きづか)ったところで、根っこが腐っておってはどうにもならんではないか・・・
大森酒道(おおもり・しゅどう)/ 超大森酒道(ちょうおおもり・しゅどう)
あなたという木の全体図
根っこが腐るとは
【 自己意識としてのあなた 】と【 自己意識の基盤である聖なるもの 】とのつながりがなくなっている意識状態にあるということ
つまり、
自己という木を健全な木に育てたいのであれば、枝を丈夫にすることよりも、まずはしっかりと根を張ることが大切である
ということが語られている。
褌とは
下半身に着用する日本の伝統的な下着。
ふんどし。
※ 当然のことながら大森酒道と、その一番弟子である超大森酒道とは架空の人物であるため、本文中で禅師(ぜんじ)と書くと支障が出る恐れがありますので、褌師(ふんどしし)といたしております。
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